昭和四十八十一月三日 朝の御理解
X御理解 第九十九節 「無学で人が助けられぬということはない。学問はあっても真           がなければ、人は助からぬ。学問が身を食うということがあ           る。学問があっても難儀をしておる者がある。此方は無学で           も、みなおかげを受けておる。」 真がなければ人は助からぬ。という事は真がなければ自分自身も助からぬという事です。真がなければ人も助からぬ。同時に自分自身も助からぬ。真という事は本当な事という事です。
 本当な事を段々、より本当な事を追求してわかって行くという、それが信心の信心を進めて行く事だとこう思う。
 此処では、学問はあってもとか、学者が身を食うという事があるという事を言っておられますが、人情、人情では助からん。神情にならなければ助からん。
 人情というのは、まあいえば、全部が全部といえないでも、我情が沢山入っている人情には。ですから人間が小さい考えとか、人間の思いですから、それは本当な事ではない。それが全部嘘という事ではないけれども、より本当な事は神情である。
 これは神情という前に真の情という事ですね。真(まこと)の情。ですから真がなければ人が助からんという事は、真がなければ、自分自身も助からない。
 やはり例えば、今日は雨が降るから、しるしいなと自分の都合ではいけなくてもです御取次を頂いて、やらして頂くという事になる時に、よか修行が出来ますなといわれて、ああほんに、今日はよか修行が出来ると、許されるとか、自分の心をコロコロと有難い方へ転がして行けれる心の状態というものが四六時中頂けれる稽古が信心です。合楽の熱心に信心なさる方なら全部、それこそ小道具一つ買わせて頂くでも、着物一枚作らせて頂くでも、必ずお取次頂いてなさる。だから例えば許されてという事になる。だから安心して、喜んでそれを、着物なら着せて頂ける。それを使わせて頂く事が出来る。
 私は今日、六十五節から、これは勿論、日柄方位と一つの迷信的な、わざわざ、広々とした世界に住みながら、自分で世界を狭うする考え方をです、神様はそういう考え方ではおかげは受けられん。いや、受けられんどころか、それは天地に対する御無礼だという事を説いておられる御教えだと思うんです。
 けれど今日は、日柄方位だけの事ではない。家相とかそういうだけの事ではない。 私共いつも自分の心を、今日は天赦日じゃというような、許されて私共は今日があるというよな、おかげを頂かして頂く為に、自分・・・私共はそういう心を使わして頂く稽古と同時に、いわゆるお取次を頂くという、いうならば、特典とでも申しましょうかね。金光様の御信心さして頂く者。
 だから信心はなくても、先日から普請をさして頂くのに、家を拡げられるのに、何でしょうかね、鬼門のところへお便所がくるとか、お炊事場がくるというので、けどそこが一番使い勝手が良いけれども、そしたら金光様にお願いしたらよかげなと、大工さんから聞いたというてお願いに来た方があった。
 だからそれは心配いりませんよ。天地の親神様へ私がお許しをお願いしときますからと。これで家中の者が金光様にお願いしてから心配ないというたから、安心してそうさして頂いた、とこういうわけです。
 信心がなかっても、そういう思いをせんならにすると、やはりひっかかる。けどお願いをして、お取次を頂いて、心配はいりませんよと天地の親神様にお願いしてありますからというふうに頂いて、おかげを頂きますとひっかからない。そのひっかからないという事が、おかげを頂く事なんだ。ひっかかるから、そのひっかかるからおかげがそこにひっかかってないという事。真という事はいわゆる神情だという事。真情である。いわゆる人間心を使わないという事である。ところが少しばかりの勉強、沢山の勉強をすれはする程でしょうか、常識も豊かになる。又様々な学問に依ってわからせてもらうというのは、どこまでも人間の頭いわゆる人間の頭脳に依るものである 真情というのはもう底がない。限りがない。ですからかえって無学の人が、いうなら、真情が出しよいというような傾向があります。
 それは学問はあっても真があれば鬼に金棒です。例えば九州の篤者といわれる、桂松平先生でも、福岡の吉木栄蔵先生でも、久留米の石橋先生でも、近くは甘木の安武松太郎先生でも、ああいう大徳をそれぞれ受けられる。
 とりわけ福岡の吉木栄蔵先生なんかは、福岡の町に布教に出られるにあたって、四神様に御伺いなさっておられる。
 私のような無学な者が福岡といえば大変学者の多いところ、ですから私のような無学な者がとおっしゃったところが、これと同じような事をおっゃっておられる。それこそ馬鹿と阿呆で道を開けとおっしゃった。
 馬鹿と阿呆というその心が如何に真情であるか、又は神情、神の情ですかね、その神の情に近いか、又はそれが真の情がという事であります。
 本当に馬鹿と阿呆になれば自分自身が楽でしょうが、助かるです。ですから、どうでもやっぱり、学問を例えばしておりましてもです、一つそう真情、本当の情が使えられるおかげを頂き、本気で馬鹿と阿呆にならせて頂く。
 やはり稽古をしなければいけません。今申し上げました九州の篤者といわれる先生方の、いうても学問を沢山なさったという事ではなかったというところにです、かえって御自身が助かりよかった。御自身が助かられたから人も助かったという事になるのじゃないでしょうか。
 あちらの先生は大学を出ちゃるというような先生のところで、そういえば余り人が助かるところのが少ないような感じがする。現在の金光教の一つの傾向とでも申しましょうか。いわゆる常識的な宗教になって行きつつある感じがします。
 あまりに人情的宗教と申しましょうか。だからそういう信心を身につけて参りますと非常に人の人徳はつきますね。まあ人徳、信心のない人でも、認めるとか合点が行く感じです。ところが馬鹿と阿呆で行きますと、ほんなごと、馬鹿にされたり、阿呆にされたりする傾向があったり、又は無茶苦茶だと、ほんとに馬鹿じゃあるというような事になっきたりしかねない。いわゆる、常識的ではなくて、いうならば非常識的である。
 非常識というのは、まあ私はそれを超常識といわゆる、より本当な常識と思っております。いうならば道徳的ではない、超道徳的なものである。
 金光教の信心があまりにも道徳的になってきた。そういう傾向を感じます。そういう傾向になるところから、生きた働きが段々少なくなってきた。
 いうなら、本当に考えなければならない事だと私は思います。そういう意味で合楽の場合は時々非常識な事を私が言う。けれども、それは超常識、不道徳的な事という けれどもそれは、超道徳だと。
      ※     ※     ※     ※      ※ 昨日午後の奉仕の時に、妹が椛目の妹が二度目のお参りをして来ておりました。ところが丁度、その時に、どうでも会わなければならないという人が丁度、お参りしあわせて来た。
 丁度おかげ頂いてよかったとこう言う。まあいうなら、ふがよかったとこう言う。 だからその事を通して申しました。とてもとてもね、この方が毎日お参りをするとかというのならとにかく、滅多に参って来ん人が、あんたが用がある人がここに参って来ておる。
 神様のもう大変な働きの中に、もう本当にあのどんなにお礼申し上げてよいやらわからん位なおかげ、まだその根にあるところは、もっともっと大きい、唯それは氷山の一角であって、もう大変なおかげだと。
 只、「フ」がよかったでけではすまされん。そこにおかげを受ける者と受けない者がです、それを本当におかげと思う。只、簡単におかげと思う、只、「フ」が良かったと思う。そこに次のおかげが違ってくるのです。本当におかげをおかげと実感出来るところから真に有難いというものが生まれて来る。
 もう神様の働きには恐れ入るというところから、恐れ入った生活が出来る。だから恐れ入るようなおかげになっ来るのだというて話した事です。
 いえ先生、あなたがそげん言いなさら本当にそげんですもんねと。今日、そうねあの箒は二十年位使っとったでしょう。その箒がいよいよいよいけんようになった。
 だからこれはもう御用済だから、もう御礼を申し上げてそれを捨てさせてお家に入らせて頂いたら、箒売りさんがやって来た。
 然もちっとなぐれちから、もう汽車賃さえありゃ良いから、一本買うち下さいと言うてから、もう値切る事も出来なかったし、もうそれこそ、神様間髪入れんお働きにそれこそ恐れ入って、その箒を頂いたという、ね、そうじゃろが、ね、
 もう本当に只、只、箒を買うたとか、もう二十年も使うた箒が、もうこれは使えんごとなったというだけの事ではない。
 もうそこには神様のそういう実意な箒の使い方の一つにでも、それに対する神様の働きというものが、それこそ、ただ、でもらったのでもなければ、特別安うするわけではないけれども、それが高いとか安いとかいえない程しに有難かった。
 そういう例えばおかげの連続のおかげとお互い頂いとるのだけれども、気がつかんだけの事。信心ししておれば目に見えるおかげより、目に見えぬおかげの方が多いとおっしゃる。そういうところがです、いわゆる目に見えんところのおかげをおかげとわからせて頂けるという事がです、本当な事なんです。
 目に見えるところだけが、おかげとわかるのは、それは人情、いわゆる人間の目だけで見るからそこだけしかわからんのだ。
 真情、又は心眼(神情又は神眼)心眼を以てすると、それが段々深く広く、眼には見えないところをおかげをおかげと感ずるからおかげを頂くのだ。
 まあ、あんたについでに日頃思うとる事を話そうというて、話した事でした。
 あんたはとにかく私より素晴らしいと思うことばっかりなんだけれども、私も大体は以前、信心のまだ若かった時分は、非常に私も人情を使った。もう細かいところに気がついて自分ながらよう気がつくなと思う位に気がついた。けど、おかげでその人情が段々、真情に変わってきたらおかげでです、あんたが時々思うじゃろうと本当に兄さんは冷たい人じゃ、親先生は冷たいと言うたり思うたりする事があろうがと、それはね、本当な事が段々わかって行きよるからそうなんだ。
 人情を使ていつも自分の心の中に不安心配取り越し苦労をせんならん。もう、ぽちぽちあんたもな、人情から卒業して一つ真情で生まれる稽古をこれからせねばいけないよと。一番素晴らしい事はね、此処では皆さんが親先生まかせと言う事を言われる という事は今日の御理解からいうと本当な事なんだ。それが一番、又同時にそれはです、馬鹿と阿呆になる事でもあるのだと。そげな大事な事を親先生任せてんなんてんと、例えば信心の薄い者や、又は無い者はいうでしょう。そういう事をほうっといてよいかと言うかもしれん。ですからそれはいうなら、馬鹿と阿呆の状態であります ところがそういう心の状態になる事が、神様が一番働きようあんなさる。私共は親先生おまかせ、それはそのまま金光大神まかせ、神様まかせという事なんだ。
 神様にお任せするという事がです、ここに少しばかりの常識とか、学問を以てするとです、例えば、病気なら病気であって、なら、医学なら医学というものを修めておるとです、いわゆるその医学がその体を見る。病気を見ようとする。
 それを例えば私共なんかは、医学で糖尿病と言われても、私共は糖尿病とは一つも思わない。糖尿病という名の神様の御都合だと思うておる。
 これは私自身の事。だから医学を修めた人が見たら本当に馬鹿のごとあろうとこう思うのです。けどそれの方が本当なんだ。
 だから私共は常識とか、少しばかりの学問は信心では役に立ちません。おかげを受けるとか、お徳を受けるとかには、大した役には立ちません。そういうお徳を受けての学問ならば、これは又鬼に金棒という事になりましょう。
 ですから合楽の人達の素晴らしいのは、親先生任せになれるのは、もう無学の状態になれるという事。そこに自分自身の助かりというものがあるという事、お任せするところに楽な心があるという事。
 そこで神様がそういう心に働きようあんなさるという事。自分の心配を例えばすればそれだけおかげが少なくなると言われるようにです、本当に自分の心が虚ろになる位に、お届けをしてお任せをしたら自分が楽になる。そういうふうに神様の充分な働きがある。働きようなんなさる。それから先がこんどはまた、その働きようなんなさるその働きのおかげを、今度は頂くという、それをキャッチするという事が、次の信心なんだ。
 そこで人情があっては折角のお任せしておるのに、一番神様が働きようあんなさるその働きを、いっぱい頂いておるにもかかわらず、それを自分の手もとに頂く事が出来ない。キャッチする事が出来ない。それはあんたが人情が強いからなんだ。
 人情がある間は心配、人情を使う間はおかげが頂きにくい。そこでなら、そういう折角お任せをした、いうなら真情、まことの事をさせて頂いて、まあ親先生任せという事になる。
 ところが後で考えてみるとその任せてばっかりはおられない。自分でバタバタいうならば心配をする。ああお任せしとるから大丈夫じゃろうと思う。それが人情なんである。そこでなら、神様のね、そういう例えば一つのお願いをさして頂いた、親先生に任せたなら、そこが任せる事が神様が一番働きようなんなさる。そこに働きがそこに現れてくるけれども、それを頂くという事はです、なら、和賀心という事になるのです。
 そこでお願いをしておって、腹をたてよちゃ、こげなこっちゃおかげを頂き損なうという事になるのです。こげな事ばっかり心配しょったんじゃ、折角のおかげを頂き損なうという事になるのだ。
 穢い心、イライラする心、ありとあらゆる頂きにくい心というものをです、ははあこんな事ではいかんと、それを祓い清めさせて頂く。いわば本気の修行をさしてもらわにゃいけん。只、任せただけじゃいかん。任せて頂くその受けものがです、自分の心の中に感ずるところの、いわば穢いものとか、おかげの受けにくい心、折角お願いしとってこんなに人情を使うて腹を立てとったり、悔やんだり心配したり、いやこげんことしたらおかげは受けられんと、その心を祓うと行く修行。
 只頭打ち振っただけで祓われん時もある。そこんところが修行なんだ。一ぺん参るとに二へん、二へん参るとは三べん、いわゆる普通のお参りより朝参り、いろんな修行の工夫をさして頂いていくと、不思議に自分の心の中がです、おかげの受けられる心の状態になる。心が平静になってくる。安楽な心になってくる。その上お任せしておる。だからもう絶対のおかげが頂かれるようになる。
 ここんところを頂いていくという事は、だがしかし限りがないこと。任せるという事でもです、その任せたならば、そのおかげが必ずおかげがそこに現れてくるそのおかげが、そのおかげが神様が充分に働きよんなさるその働きというものを、キャッチするのは和賀心です。
 どこまでも和賀心なんだ。いくらお任せしとったっちゃ、腹ばっかり立てとるならばおかげをそこに神様は作っとってやんなさったちゃそれを頂きとめる事は出来ん。 ずるい事ばっかり考えとったり、穢いことばかり思いよったんではです、折角お任せしとるから神様が一生懸命働きをして、そこに置いてござってもです、それを頂きとめる事が出来ない。
 だから、任せるという事にはね、そういう一つの人情というものを取って、本当に真情になる事にならなければ、自分自身が助からん。イライラしたり腹立てたりという事は、自分が助かっとらん証拠でしょうが。
 自分が助かることの為に精進努力さしてもらう。その上お任せするという事になってこなければならん。その上学問があり、常識が豊かであるというならば、それは又鬼に金棒であります。
 真がなければ人が助からんという事は、真がなければ本当な事にならなけれど自分自身が助からん。本当な事というのは、人間の学問から出て来た答えといったようなものは、決してまあだまあだ本当なものではない。むしろ馬鹿と阿呆になっおるその心の方が本当な事だ。
 だから馬鹿と阿呆になりゃ、人も助かりゃ自分も助かるのである。勿論、馬鹿と阿呆になりゃ人が腹を立てとる時でも腹は立たんでしょう。いうならおかげの頂きよい心の状態をもって、尚且つ神様にお任せするというような心の状態がです、そういう自分が助かる事にもなりゃおかげを頂く事にもなる。人も助かる事にもなる。
 皆さんが身につけとられる、例えば、なら学問でもです、一応はその学問では役に立たないというところにならなきゃいけんです。
 私共が助かるという事には、そこにです場合には、それが非常識という事にもなるでしょう。けれどもそれは非常識ではない。超常識である。問題によってはそれは、不道徳的なというような事であります。
      ※      ※      ※      ※      ※ 昨日のお道の新聞を読ませて頂いとりましたら、あるどこかの先生が泥棒のお取次をなさったと。という事は金光様は泥棒の、泥棒する泥棒のお取次でもなさると言うことはけしからんというたその先生がそれをお願いすると、どこどこに泥棒に行きますからというても、ちゃんと神様が泥棒せんで済むおかげを下さるとおっしゃった、という事が出ておりました。
 だからそういうところはいうならば、非常識であり不道徳な事なんです。私でも、なら、三角関係で悩んでおる人、それをすぐ止める事はいらんち。具合よう、いっちょ奥さんにわからんようにせんなち、いう言い方をするのです。だからそこだけを聞きゃ合楽の先生は不道徳というでしょう。けれども私が言うてお願いしよりゃ、ちゃんと、綺麗に清算が出来るような、お繰り合わせに絶対なってくるから不思議です。 金光様の信心のその不思議なところが非常に少なくなってきた感じがします。それはあまりに道徳的になってきて、常識的になってきたからだと私は思います。
 無学で人が助からん事はないという事は、そういう意味だと思うんです。いうならば、馬鹿でもよいんだ。阿呆でも良いのだと、真さえあればと。だから普通でいう、さら馬鹿というんじゃなかわけです。その真が出てこない。
 福岡の先生に馬鹿と阿呆で道を開けと、四神様がおっしゃった意味もです、そういう事だと私は思うですね。
 人が助かる前にまず、自分が助からずして、人が助かるはずはありません。それにはいわゆる、任せるという事は、もう本当に馬鹿と阿呆になった姿であります。
 馬鹿じゃなかろうか、そげな大事な事を、親先生任せてんなんてん事になってくる だからこれが神様が一番働きようあんなさる状態であるという体験を皆さんが積んで行かなければならない。
 同時にそのおかげを頂きとめるのは和賀心である。ああ折角信心しよって、こんな御無理な事お願いしとって、ああ、こういう心を起こしちゃおかげにならん。
 ここでイライラしよってはおかげにならん。ここで腹どん立てよったんじゃ、不平不足どん言いよったんじゃ、おかげは頂かんというて、その心を祓うて行く生き方になっくる時にです、充分な神様の働きを充分に頂きとめて行く事が出来るのです、ね                                 どうぞ。